死ぬのはもったいない?
「死にたい」と願う人に「死ぬのはもったいない」と言う人がいる。
事実、僕は最初にかかった病院で主治医にそう言われた。
死ぬのはもったいないことだから自殺するのはやめておいた方がよい、ということだが、はたして死ぬのはもったいないことなのだろうか。もったいないのだとしたら何がもったいないのだろうか。「死ぬのはもったいない」という発言は死を願う人にどのような影響を及ぼすだろうか。疑問が次から次へと湧いてくる。
精神科医である以上、患者に自殺を思い止まらせなければならないのは当然であるし、そのような意図から上記の発言がなされたのは納得がいくが、この発言は適切なものであろうか。当事者である僕がこの発言を受けて考えたことを以下に記してみる。
何がもったいないのか
僕は死後の世界や魂などの存在を信じていないので、死ねば無に帰するだけだと考えている。死んだらおしまい。何もできなくなる。呼吸をすることも、まばたきをすることも、歩くことも、食べることも、考えることも、楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、つらいことも、何もできなくなるし、何も感じなくなる。死んでしまえば、僕はあらゆる経験をすることができなくなってしまうのだ。僕からあらゆる経験のチャンスが剥奪されることをもって「もったいない」と言うのだろう。
「もったいない」とはどういうことか
食べものを残すことはもったいない。残された食べものはやがて捨てられてしまう。それらはまだ食べることができるのに、誰にも食べられずに燃やされて灰になってしまうのである。本来、食べものとは(動物に)食べられるべきものである。つまり、食べものには「(動物に)食べられる」という役割が備わっているのである。食べものを残して捨てるということはこの役割をも捨てるということを意味する。
「食べられる」という役割を持った食べものは食べられることで役目を果たす可能性を持っている。そして、その可能性こそが食べものに期待されていることである。
食べものを捨てるということはこの可能性を潰すことに等しい。
可能性を持ったものに我々は価値を認める。
食べものを捨てることで、食べものから「食べられる」という役目を果たす可能性が剥奪され、価値が喪失するのである。
価値の喪失こそ「もったいない」の正体である。
本当にもったいないのか
以上の考察より、もったいなさを感じるためには価値の喪失が不可欠である。
冒頭の話に戻るが、僕が死ぬことは本当にもったいないのだろうか。
ここで問題となってくるのは、僕の存在や人生に価値があるかである。
「(物事に)価値がある」と言う時、それに価値を認める主体なしには済まない。
くわえて、それに価値を認めるか否かは主体により異なる。
つまり、僕に価値があるかどうかは僕を観測する主体次第なのである。
僕が何を言いたいか読者諸君もそろそろわかってきたかもしれない。
僕の主治医は僕に価値を見出したがために「もったいない」という言葉を発した。
僕は僕自身に価値を感じない。
主観的な視点に立てば、僕には喪失する価値がないのである。
それゆえに、僕には自分の死がもったいないとは思えない。
それからもう1つ。
価値が成立するためにはそれを観測する主体が必要であるが、僕が死んでしまえば僕自身が消滅するため、僕は自分の価値の喪失を観測することができなくなる。
つまり、自分の価値が喪失するかどうかなど僕には関係ないのである。
以上の理由により、僕の死は僕にとってもったいなくないのである。
「もったいない」と言われて感じたこと
「もったいない」なんて欺瞞だ。先生は僕の死を自分に置き換えて思考した。先生は自分に価値を感じた。だから「もったいない」と言った。僕のことなんてわかっていない。「もったいない」というのが先生や第三者の視点によるものだということに気づいていない。「もったいない」とはどういうことか真剣に考えていない。あまりにも軽薄なその言葉。死を願う人間に一般的な考えは通用しない。何もわかっちゃいない。先生も所詮は健常者だ。失望した。
大体こんなところか。
おわりに
本当はもっと綿密に論じたかったのだが、この辺が僕の限界か。我ながら杜撰な論理だが、これ以上手を加えてもクオリティが上がらなそうなのでこれで完成ということにする。
一般論を語ってもメンヘラの救いにはならないどころか、無理解を嘆くことにもなりかねないので、発言の際には注意しなければならない。専門的な知識がない健常者は不用意に発言しない方がよいだろう。