きょむ日記

大学中退メンヘラヒキニートの日記。

自殺は悪いこと?

世論だと自殺は悪いことだとされていますが、本当に悪いことなのでしょうか。悪いとしたらどのように悪いのでしょうか。「自殺してはならない」と言う人は思考停止に陥ってはいないでしょうか。死を願う人にそのようなことを言うべきなのでしょうか。彼らはそのようなことを言うことで死を願う人にどのような思いをさせているか考えているのでしょうか。いろいろと疑問が湧きますね。少し考えてみましょう。

 

自殺が悪いことなのかどうかを考えるためには自殺がどのように悪いのかを明らかにしなくてはなりません。自殺が悪いこととされる理由には次のようなものが挙げられるでしょう。

  • 命を粗末にしている
  • 人に迷惑がかかる
  • 社会の損失になる
  • 生きたくても生きられない人がいる
  • 人を悲しませるから

僕が思いつくのはこれくらいです。1つ1つ考えてみましょう。

 

命を粗末にしている

おそらく、このような主張をする方は命を尊いものだと考えているはずです。どうして命は尊いのでしょうか。物体に意識が宿ることに神秘的な何かを感じているのでしょうか。動く物体が珍しいのでしょうか。数多のご先祖様の縁があってこその命だからでしょうか。僕にはよくわかりません。

 

この辺のお話をする上ではスピリチュアルな要素を抜きにすることはできないように感じます。日本人に特有の宗教観が大きく関わってきそうですね。しかし、僕からすれば宗教は共同幻想であって、幻想を共有する人間の間でしか意味を持たないものです。ですから、無宗教の僕に宗教的な考え方を押し付けられても困るというのが正直なところです。とはいえ、日本人には魂や霊、あの世の存在を信じている人も多いようなので、一般論として語る場合にそのような宗教観を前提にすることは自然なことかもしれませんね。ただし、それが唯一絶対の正しい価値観だとは思ってほしくありません。お互いがお互いの価値観を尊重できるような社会であるといいと思います。

 

というわけで、自殺が命を粗末にしているかどうかは個人の価値観によるものだと思います。

 

人に迷惑がかかる

 これはさすがに肯定せざるを得ないでしょう。どんな死に方をしようが警察が動くことは間違いありません。マンションの一室で自殺したらそこは事故物件になってしまいます。ビルから飛び降りたら地上の歩行者を巻き込むかもしれませんし、無残な死体を衆目に晒すことになります。人気のないところで自殺したら捜索願が出されて大規模な捜索が始まるかもしれません。自殺か他殺か疑わしい場合には関係者が警察の取り調べを受けることになるでしょう。

 

自殺したら他人に迷惑がかかるのは当然ですね。では、他人に迷惑をかけることは悪いことなのでしょうか。僕たちはただ生きているだけで他人に様々な迷惑をかけています。このような迷惑は許されて自殺でかける迷惑は許されないのでしょうか。――迷惑の大きさが違う。そうですね。自殺は他人に多大な迷惑をかけてしまいますね。

 

では、重病人はどうでしょう。病気によってはとても長い入院生活を余儀なくされますし、何度も手術を受けることになるかもしれません。医者や看護師の手を煩わせるのはもちろんのこと、家族にはお見舞いをさせることになりますし、金銭的な負担をかけることにもなります。大迷惑ですね。これは許されるのでしょうか。――病気だから仕方ない。そうですね。確かに病気になってしまったのでは仕方ありません。病気になるかどうかは自分ではコントロールできませんからね。

 

では、不幸な事故で亡くなった人はどうでしょう。絶景を見るために人気のない岬を訪れたら足を滑らせて海に転落してしまった。警察が捜索に向かうでしょうね。車に轢かれてしまった。無残な死体を衆目に晒すことになりますね。マンションの一室でうっかり足を滑らせて頭を打ってしまった。その部屋は事故物件になってしまいますね。これらは許されるのでしょうか。――運が悪かっただけだから仕方ない。そうですね。これらもまた自分ではコントロールしようがありませんものね。

 

では、自殺だけが許されないのはどうしてでしょうか。そこに本人の意志が介在しているから、というのが理由のようですね。病気や事故はコントロールのしようがないけれども、自殺するかどうかは本人が決められることです。不幸な偶然により周囲に多大な迷惑をかけてしまうことは仕方のないことだけれども、自らの意志により多大な迷惑をかけることはあってはならないことなのです。だって、自殺を思いとどまれば迷惑をかけずに済ますことができたのですから。

 

でも、それって本当でしょうか?ある人が自殺に至るまでには様々な原因があります。家庭環境が悪かったとか、学校でいじめられたとか、会社をリストラされてしまったとか。これらは自分の力ではどうすることもできませんね。運が悪かったのです。これらの理由でうつ病になってしまった人はどうでしょう。病気だから仕方ありませんよね。自殺者が死に向かったのは避けることのできない不幸な偶然に見舞われてしまったからなのです。

 

――しかし、最後の一歩を踏み出すかどうかは本人の意志によるものだ。あなたは意志を自分の思い通りにコントロールできる都合のよいものだと考えているようですね。残念ながらそれは間違いです。意志は我々のコントロール下にありません。試してみますか?では、これから1分間シロクマのことだけは考えないようにしてください。スタート!……どうですか?シロクマのことを考えないようにすればするほどシロクマのことを考えてしまうのではないでしょうか。そう、意志なんてそんなものです。自分の思い通りにはならないものなのです。それに、哲学や脳科学の本を読めば意志なんて実在しないことがわかると思いますよ。

 

というわけで、最後の反論も有効ではないことがわかりました。よって、自殺のみを迷惑がかかるとの理由で責める正当な根拠はないわけです。

 

社会の損失になる

人が1人いなくなったところで社会にどれだけの影響があるのでしょう。それに、人が死ぬということはその人の労働力が失われると同時に、その人が消費するはずだった様々の資源を取っておけるということになります。また、その人の懐に流れ込むはずだったお金も他の人の懐に流れ込むことになります。その人が死んだ代わりに得をする人が出てくるのです。こう考えてみると、自殺が社会の損失になるとは言えないのではないでしょうか。

 

生きたくても生きられない人がいる

 これはもうめちゃくちゃな論理ですね。僕が生きようが死のうがその人は死んでしまうわけです。僕が生きても一切その人のためにはなりません。どうして僕が赤の他人の人生を肩代わりしなければならないのでしょう。命を粗末にするとその人が悲しむから?それはその人の問題であって僕の問題ではありません。僕だってその人の代わりに死んであげられなくて悲しいですよ。

 

人を悲しませるから

自殺をすることの最も悪い点はこれでしょう。僕のことを大切に思ってくれている人がいた場合、僕はその人のことを悲しませてしまうことになります。これはどうしても避けられません。老人が孤独死しても誰かしら悲しむ人はいるでしょう。自殺が周囲に及ぼす影響は計り知れません。遺族は深い悲しみに暮れることでしょう。自らも死を考えてしまうくらいに心を病んでしまうかもしれません。これは自殺を考える側の人間としても避けたいところです。

 

ここで僕が皆さんに考えてほしいことは次のことです。遺族の苦しみを問題視するならば、どうして本人の苦しみを無視していいはずがありましょうか。周囲の人間を悲しませないためには本人は苦しんででも生きなければならないのでしょうか。この場合、誰よりも苦しいのは本人であるはずです。本人は他の誰でもなく自分の人生を生きています。それなのにどうして自分を犠牲にして他人の都合を考えなければならないのでしょうか。死にたいほどに苦しいのに死ぬことすら許されない苦しみを想像できますか?それは想像を絶する地獄です。自殺を願う人だって残された人の悲しみにくらい考えが及びます。自分を大切に思ってくれる人を悲しませたくないのは当然です。それでも、あまりにも苦痛に満ちたこの人生に耐えきることができないのです。「自殺は悪いことだ」と言う前に、本人の気持ちを想像してあげてください。

 

結論

自殺は周囲の人間を悲しませるという点において悪いことであると言うことができるでしょう。だからといって本人にそのようなことを言うべきではありません。そんなことは本人が一番よくわかっているからです。それでも死を願わずにはいられない本人の心境を察してあげましょう。死は苦しみから逃れる唯一の救いなのです。無知で想像力に欠けた発言は暴力でしかありませんから慎みましょう。