きょむ日記

大学中退メンヘラヒキニートの日記。

思考 感情 選択 ニート 引きこもり 何が正しいか

僕が考えごとをする時は、疑問から始まるのが普通です。何でもかんでも疑ってみるのです。僕にとって自明なこと、世の中で自明とされていることも疑ってみます。どうして疑うのか。それが正しいことかどうか知りたいからです。どうして正しいことを知りたいのか。間違いを犯したくないからです。どうして間違いを犯したくないのか。間違いを犯して他人からの評価が下がり、他人から嫌われてしまうことを恐れているのでしょうかね。心の奥底にある「人に嫌われたくない」という気持ちが僕の執拗な思考を生んでいるのだと思います。人に嫌われることを厭わない人はあまりこういうことを考えずに己の信念を貫くのでしょうかね。ワンマン経営者にこういう人が多そう。偏見かしら?

 

思考は僕の中で重要な位置を占めています。何をするにも入念に思考してから取りかかります。何もしなくても思考します。思考が問題を解決してくれると思う気持ちが強いのでしょう。思考すればよりよい方向に事が進むと思っているのです。僕は思考せずにはいられません。間違った選択をしてしまうことが怖いからです。間違った選択をしたという事実は消えません。人の記憶の中に残り続けます。僕はいつまでも自分の失敗を悔やみ続けます。他人の記憶の中にあるであろう自分の失敗を想像しては恥じ入ります。僕は恥を晒したくはありません。僕は格好良くありたいのです。僕は完璧な存在でありたいのです。だから僕は思考し続けます。答えを探して思考し続けます。間違えることのないように――。

 

僕は思考に頼りきりですが、最近は思考の力に疑問を持つことが多くなりました。思考ははたして僕の問題を解決してくれるのか。思考すれば答えにたどり着くことができるのか。思考は僕の気持ちを軽くしてくれるのか。僕は思考を過信しすぎていた気がします。思考では解決できないことがたくさんあります。思考していただけでは経験できないことがあります。思考で感情や気分をコントロールすることはほとんどできません。思考で答えにたどり着くことができるとは限りません。自分が正解だと思っていたことが実は間違いである可能性もあります。そもそも、問題に答えがない可能性もあります。というか、人生には答えがないことの方が多いです。逆に言えば、何もかもが正解なのです。何もかもを自分で正解にしてしまうことができるのです。僕たちは自分の中の正解に向かって進むしかないのです。世の中で正解だとされていることが本当に正解であるわけではありません。それが自分にとって正解であるかは自分が決めることです。常識が正解だと思うのならば、それが正解だし、正解でないと思うのならば、それもまた正解。

 

僕がいくら思考しても目の前の石ころを転がすことはできません。思考の限界です。こればかりは肉体を動かさなければなりません。また、石ころを視界から消そうにも「消えろ、消えろ」と念じているだけではいけません。石ころだけが見えなくなることはありません。石ころを視界から消すには目をつぶったり、首を動かしたりしなければなりません。「僕は悲しくない、悲しくない」と念じていても悲しみが晴れることはありません。頭の中で綺麗な風景を呼び起こしても、実際に綺麗な風景を目の前にしたときの感動を味わうことはできません。失敗を笑われて恥ずかしかった記憶があります。本を読んで失敗は恥ずかしいことではないという考え方を知ります。それでも僕は失敗が恥ずかしいです。経験を思考で覆すことは難しいのです。経験を覆すには経験が必要な気がします。失敗をしても恥ずかしくないことを身をもって経験しなければなりません。失敗をしても笑わずに受け入れてくれる経験が必要なのです。あるいは、恥ずかしいことを悪いことだと捉えないようにするか。僕は恥に対してとてもネガティブな評価をしています。しかし、恥をいいことだと捉えるようにすれば恥を恐れる必要がないのではないでしょうか。たとえば、恥ずかしい思いをしたからこそ「次は恥をかかないように頑張ろう」と思えたとか。恥を成長のチャンスだと考えるのです。恥自体が人間にとって負の感情であることは否定できませんが、その結果としてよい方向に向かうことができると考えるのです。人間の基本的な感情を思考で打ち消すことはできませんが、それに対する評価を思考で変えることはできるのかもしれませんね。もちろん、これも経験が伴うとよりよいと思います。恥をかいたことで成長できたと実感することができれば恥に対する評価の上書きがしやすくなります。このように感情に対する評価を書き換えるにあたっては、恥に対する新しい考え方を知っておくというのは案外大切なことなのかもしれません。思考の限界が少し遠ざかったように思います。

 

お腹がすいた。うどんを食べるべきかそばを食べるべきか。どちらを食べるにせよ、最終的には思考で判断しなければなりません。けれども、この問題を思考で解決するのはあまり合理的とは言えません。腹持ちのよさやカロリーのことを考えなくてはならない状況なら思考が役に立つでしょうが、そうでないならどちらが食べたいかという気分を判断材料に決定を下さなければなりません。どちらが食べたいかなんて無根拠で非合理で非論理的ですから、思考が扱うには不適切なフィールドの問題ですね。こんなものはいくら考えたって仕方ありません。直感で決めるしかないのです。しかし、問題が複雑になってくると思考の働きが活発になってきます。Aさんと付き合うべきかBさんと付き合うべきか。年齢や年収、身長や体重など容易に比較のできる数値が登場すると我々は思考を働かせることができるようになります。趣味が「合う」か「合わない」かのように問題を無理矢理2択に仕立て上げてしまうこともできます。AさんとBさんのステータスを1つ1つリストアップしてどちらの方が◯の数が多かったか比較することもできます。◯の数が多い方と付き合うというルールを自分に課していれば、純粋に思考のみでこの問題を解決することができます。しかし、誰かと付き合うということは思考すべきことなのでしょうか。どちらの人といるときの方が楽しいとか気が合うとかドキドキするとかそういう感覚的な部分で決めることではないのでしょうか。もちろん、結婚してからお金に困るようでは結婚生活も上手く行かないでしょう。しかし、お金があったからといって「この人とはなんとなく合わないなあ」という思いを抱えて結婚生活を送っていくのはどうなのでしょう。どこかで上手く行かなくなるような気がします。僕はこの問題に関しては思考ではなく感覚で決めるべきだと思っています。誰と付き合うかということ以外にも、思考ではなく感覚で決めるべき問題は案外多いのではないでしょうか。あまり考えずに感覚でパッと決めて飛び込んでしまった方がよかったりするのかもしれません。

 

僕は何をするにもまず思考します。いろいろなことを想像します。バイトをしてみようかという気分になることがあります。どんなバイトをするか考えます。そこでどのように働いているのかを想像します。面接のことを想像します。面接は嫌です。働くのも嫌です。バイトをしたくなくなります。働くのは嫌なことだという思い込みがとても強いです。どんな仕事をするのを想像してみても嫌で堪りません。それで働くのが余計に嫌になってしまいます。こういうのはきっと案ずるより産むが易しなのでしょう。働いてみたら案外楽しいのかもしれません。働くことが本当に嫌なことかどうかは働いてみるまでわかりません。社会には嫌な人が多いと思っているので社会に出たくないのですが、もしかしたら職場の人はすごくいい人かもしれません。「世の中にこんなにいい人がいたのか」と思わされるくらいにいい人がいるかもしれません。何事もやってみないとわかりません。でも、僕はそれが怖いので事前に思考するのです。嫌な思いをしたくないのでひたすらに思考するのです。思考に思考を重ねて何もできなくなった結果が今の僕です。ニートや引きこもりにはこういう人が多いのだと思います。傷つきたくないから何事からも逃げ続けている。自分が大事なのです。打たれ弱いのです。何事も肉体を動かさなければ始まらない。何事もチャレンジしなければわからない。いくら思考していたって状況は悪くなる一方。そんなのはきっと皆わかっているのです。それでも動けない。それで動ける人はニートや引きこもりにはなっていませんね。怖くて動けなくなってしまう人がいます。その究極系がニートや引きこもりなのです。想像すればするほど怖くなるのはある意味では当たり前です。だからといって想像せずに動くのはもっと怖い。この恐怖心を軽減するか、働かざるを得ない状況に追い込まれない限りはここから脱出できないのでしょうかね。あるいは、安心感や使命感が恐怖心を打破するか。

 

人生の選択なんて何が正しいかは誰にもわからない。あとになって自分の選択は間違っていなかったと気づくかもしれない。当時は正しいと思っていたのに実は間違っていたことに気づくかもしれない。あとになってもそれが正しい選択だったのかわからないこともある。過去に間違った選択をしたからこそいま正しい選択をできているのかもしれない。その意味で過去に間違った選択をしたことは正しかったのかもしれない。そもそも正しいとか間違っているとか考えること自体間違っているのかもしれない。正しいか正しくないか、そんなの関係なしに僕たちは生きなければならない。

 

思いついたことを書き殴ってみました。話題があちこちに飛んでいます。思考の連続性を表すためにあえて改行していなかったりします。ちょっと読みにくいですが。皆さんに語りかけるような口調で書いているようなところもありますが、実のところは自分の気づきを自分自身に語りかけているようなものです。「もしかしたらこうなのではないか」と思えることを自分に問いかけているのです。僕に当てはまることを僕のために書いていますが、皆さんも何か感じるところがあればいいなと思います。重要なのは僕が正しいかあなたが正しいかではなく、自分にとって何が正しいかです。何が正しいかを考えること自体が間違っていると思うのならば、それがあなたにとって正しいのです。僕たちは自分が正しいと思っている行動を取っています。自分が何を正しいと思っているかを考えてみると自分の行動や感情の理由が見えてくるかもしれません。あなたがどのような信念で作り上げられた人格なのかがわかるかもしれません。少し考えてみると面白いかもしれません。面白くないかもしれません。深く考えない方がいい問題なのかもしれません。僕にはわかりません。